2018年9月20日木曜日

厳戒なシルクロード入口

9月4日から9日まで

ウルムチ、トルファン、敦煌、そして西安を旅する。

シルクロードの出発点らしく多くの文化の混合と融合、特徴を

見てきた。

しかし、旅の途中では常にパスポート提示とセキュリティ

チェックで少々、不愉快な旅となった。

多くの民族や反政府活動グループによるテロや思わぬ事故防止とは

理解したが、多くの思い出が色あせてしまった。

ただ、少数民族に対する政治的な配慮は印象に残った。

一帯一路政策が少数民族や周辺諸国の発展に寄与するように、

多くの人々が、そして旅人が満足できる政策になることを期待したい。



2018年9月3日月曜日

元国連事務総長アナン氏の逝去を悼む

  元国連事務総長アナン氏の逝去を悼む朝日新聞「声」投稿(2018・0822)不採用原稿より

アナン元国連事務総長の死を悼む 

8月19日の朝刊でアナン氏の逝去を知り、2010年4月28日、ツアーでストックホルム
滞在中、アナン氏に出会ったことを 思い出しました。  その時は、ノーベル賞メダルの
チョコレートを購入するためにスウェーデン・アカデミー(現ノーベル博物館)に入館し、
 報道写真で 見慣れたアナン氏に出会いました。  
    彼はわれわれの仲間を目にすると、即座に「ジャパニーズ」と声をかけてくれました。
そのときの驚きとその興奮は忘れられません。
1990年代にウプサラ大学の夏季語学研修に訪れた時、
 最初に見たビデオがラウル・ウォーレンベリィ(彼の奥さんは大姪)でした。
ビデオはアナン氏の人道主義にも相通じるものでした。
以来アナン氏の国連での平和を求めた活躍に関心を寄せてきました。
大国のエゴや紛争当時国同士の齟齬に阻まれて、悩む日々も多かったと思われます。
PKO問題では創始者ハマーショルドの意を汲みながら進化させ、
ノーベル平和賞の受賞に至りました。
館内でのチョコレート購入も忘れて、握手の手を伸べると「サンキュー」と 返してくれました。
この手が「世界の平和に尽くされた手だ」と、その温もりを感じました。氏にご冥福と感謝を述べたいです。 一部修正
 
 


2018年3月29日木曜日

民主主義への懐疑

 2018年3月27日に森友学園問題で佐川宜寿氏の証人喚問に
民主主義の懐疑と限界を感じた。
この問題を解明するにはほぼ絶望的と考える。
すなわち、文書の改竄に関しえてはある程度の解明が
できるだろうが、その行為が忖度である場合は、
心の問題となり証明や証拠を出すのはむずかしい。
首相官邸が直接指示した証拠や文章がでれば明らかであるが、
たぶん、無理だろう。
第一、官邸の指示など考えらえない。(具体的に有形で)
(首相周辺の忖度による関係性はあったろうが、証明は難しい)

結局、佐川氏の改竄の範囲で終わりになり、問題はやぶの中。
長い年月で、証言が出ても物的証拠が証明されるのか。
いいらいらと諦めムードである。

証人喚問でべらべらTVの前で話すのも考えられない。
今回のような形が一般的だろう。(たぶん私でもTVの前で語ることはない)

しかし、忖度はどこまでが法的に違法かは難しいし、
改竄は違法で解決されても、内閣の支持率はなお高い。

ここに、民主主義とは何かが疑われる。
世論操作もあるかもしれないが、人々は今日の飯の問題である。
民主主義と力を込める自分がばかばかしい。

 ある程度の生活である程度の日常性が保持できた自分が、
こんなに反応の良くない人々のために民主主義を声高に主張する自分が
馬鹿らしくなってきた。
改竄などとは民主主義の根幹にかかわる問題だと思うが、
決してて多くの人々は違うようである。
北朝鮮問題、トランプ問題、そして失業率、就職率、景気動向。
これらを最優先の人々も多いように思われる。

民主主義とはいったい何ですか。
このような形でおわりですか。
もう、議論したくないです。
このように時間を費やすのもバカバカしい思いです。
後、数年の命の人間にとって
虚しさいが以外のなにものでもなくなりました。

しばらく、筆を止めましたが、あえて書いた。
これも無駄なひとりごとかな。


2016年8月16日火曜日

振り返りながら前進しよう

昨日は終戦記念日

過去を見ながら前進しよう

昭和25年(1950)頃に小学校の校庭での集会で
校長が「我が国は1等国から敗戦で3等国になった。
後は君たちが頑張ってほしい」との趣旨であった。
内容はよく記憶にないが、「1等国や3等国」の 言葉だけが
脳裏に印象深く残った。

昨今、多くの課題を抱えて、国民の声も意見も多々ある。
しかし、私としては国に等級はないように思えるようになった。

過去をしっかりと反省して、少しだけの夢とより多くの
実現可能な理想を追い求めたいものだ。

平和は誰もが求めるもの。
戦争は多くの人々が嫌悪するもの。
過去の不利なことは忘れたいもの。

でも、これらを主張する人々には頷けるが、
現実の問題をどう解決すべきかを具体的な解答を彼らから
聞かされない。

9条にこだわり夢を追い求めても
解答にならない。

自衛力による安全保障の確保とバランス外交の展開。
国内には中産階級の最大化、貧困の絶滅。
将来の不安の除去。

国に等級は必要なし。
これらが終戦記念日に当たり願うものです。




2015年7月4日土曜日

戦後70年 沖縄全戦没者追悼式

6月23日に父の戦死した沖縄の追悼式に出席した。
今日まで、3度沖縄を訪ねて父の戦跡を歩いたが、現役の勤務中でなかなか
式には出席ができなかった。
今回は戦後70年の節目なので最初で最後の機会と思い式に出席することにした。

式典出席のためのシャトルバスも運行されて、順調に会場に着くことができた。
車中に同席した出席者は66歳の沖縄出身のかたで、親族を亡くし、広島からきたという。
戦時中の困難な時代には遭遇しなかったが、長い間、戦後の苦難な道を語ってくれた。

前々日にバスの出発場所を確認するために那覇市役所前の交番に立ち寄った。

2015年6月19日金曜日

沖縄全戦没者70周年記念追悼式について

6月21日に沖縄の追悼式にでかけます。

ついで、沖縄県のホームページ
「子ども生活福祉部平和援護・男女参画課「
に下記概要のメールを送りましたが、
1か月以上もなしのつぶてになっていますので
ご協力いただける方がいましたらお知らせください。

1.記念式典の出席場所は全て自由席となり、特別の区分けがあるのでしょうか。
  たとえば、都道府県別とか。

2.1970年代の沖縄復帰の当時、小生が東京都中野区の企業に勤務していました。
  その折、パスポートもった多くの若者が勤務していました。入社や退社、その他寮生活の
  お手伝いをした関係で、いろいろと思い出がありました。かっての若い人々に会いたいが、
  何か良い方法があるでしょうか。教えてください。
  
  当山美智子、古堅ケンイチ・・・、大城・・・、などなどの名が記憶にあります。

3.私の父高橋謹字の戦死場所が沖縄本島波平なる地名で戦死公報が残っています。読谷や
  南部にも同名の地名があり、2度ほど訪れて探したが、戦死場所が確定していません。
  戦死日が6月17日となっていますので南部と思っていますが、何か良い手があるでしょか。
  父は満州東安省東安町から沖縄に昭和19年末に32軍の築城隊として向かっています。

  良い知恵をお貸しください。

2015年4月10日金曜日

普天間などの基地問題解決の一つの対策

4月6日朝刊の「ヘリ空母」に反対の意見を読む。
 私は陸上の軍事基地を廃して国土防衛基地として
空母をなぜ主力としないかを疑問に思っていた。
理由は沖縄県の基地問題解決や他の地域での問題を知るにつれて
陸上基地は基地を固定化、地域住民を直接戦闘や攻撃にさらすからである。
空母の場合は、攻撃を海上で防衛し、直接的な攻撃から地域住民を
守ることができる。また基地を固定化しないために四面を海に囲まれた
日本では防衛を機動的に展開できる。その上で陸上部隊を水際に点在配置すれば
よいのではないだろうか。他国への侵略など考えたくない。  
 次に、戦争と9条についての問題は必ずこのような件では議論される。
だが、世界の歴史と日本の歴史を読めば、すべて平和が外交で解決できたとはいえない。
 ベルギーは二度の大戦とも中立を宣言したが、ドイツ軍に占領されている。デンマークも同じ状況である。日本も旧ソヴェエトと日ソ不可侵条約を締結していたが、
期限の継続前に宣戦布告され、多くの一般民の犠牲を出している。
 私は沖縄戦で父を失い母子生活で何とか生き延びてきた。だからこそ平和の
大切さを骨の髄まで知っている。戦争を望む人は現実にはいないと思う。
議論は平和の守り方、日本防衛の方法である。
 9条は日本の平和に寄与した部分もあるが、平和を170年以上守り続けているスウェーデンに見るように、地理的位置、国際情勢、そして軍事力が大きな影響を与えていると思う。
無残に占領された国の歴史を多く読むと「平和=孤立型非武装」ではありえない。9条は改正して、日本防衛と軍事力の保持、そして他国への侵略を禁止するように明記すべきだろう。
 
この記事は4月7日に朝日新聞「声」に投稿し、未だ未掲載のものです。
ただし、句読点を1か所追記